ある日 3

少しでも涼を取ろうと、ドアは開け放ってあった。
アンドレは軽くドア際をこんこんとノックしてから
入って来た。憎いほどの爽やかな笑顔を浮かべて。

「やあ、オスカル、顔が赤いな」
「怒っているからな」
「そうか、そんなに効果ありか。さっきのおまえの俺への評価は
あながち外れてはいないというわけだ。試してみた価値はあったな」
くっそ〜、リベンジのリベンジはどうしてくれよう。

気がつくと何とか逆襲のいい手はないかと考えを巡らして
寡黙になってしまった私を黒い瞳が覗き込んでいた。
その間も休む間もなく手が動き、私が無秩序に積み上げてある書類を分類し、
効率よく処理出来る環境を作りあげていく。
この天然タラシの貧乏性め。
衛兵隊に移ってから、私は大分この手の言葉を学習した。
さすがに口に出しては言わないが、心の中で毒づく時は、なかなか便利だ。

司令官室

「そんなに驚いたか?悪かった」
ああ、すぐこれだ。そんなに優しい目をして微笑みながら謝るな。
逆襲する気が失せるじゃないか。だからおまえはスケコマ…止めよう。
そうだった、おまえとはどうしたって報復合戦が続かないんだ。
おまえに戦意を保ち続けるのは容易じゃない。

「フランソワはもしかして、辛い想いをする事になるのではないか?いいのか?」
仕方がないので、話題を彼に振った。世間に疎い私でも、城壁外の遊興地区の踊り子が、
踊り子だけをしているのではないことくらいの想像はつく。少々気にもなっていた。

「全く、ピエールのやつ余計なことを…。
最初にやつに聞いた時は思いっきり冷たく突き放して見たんだよ。
かなりきつい言葉で、真剣に恋をしてはいけない相手じゃないか、と。
あいつ、凄い剣幕で食い下がってな、絶対に諦めないって。
その様子を見ていたら…あいつならひょっとして乗り越えていくんじゃないかと思えてな…。
辛い目には遭うだろうけど理屈抜きでこれだけは譲れない事ってあるだろう?
俺は…あいつにそれを感じたんだ。あいつには欲しいものを勝ち得て欲しいと思うよ」

アンドレそれは…。私はまたしても言葉を失う。
「それにしてもだ、オスカル。おまえが俺をあんな風に思っていたとは意外だったな」
一瞬陰りを見せたアンドレの瞳に悪戯っぽい光が宿る。
「そうか?そう思っているのは何も私だけでは無いと思うぞ。帰ったら侍女達何人かに聞いみろ」
しれっと言ってやった。
「聞けるかそんなこと。いいからかいのネタになるだけだ。
しっかし、俺にも色男の小技が使えるんだな。
おかげで自信がついたよ。今日はいい日だ」

それは良かったな、馬鹿者。あんな小技が問題なんじゃない(と、言う割には強烈だったが)
人が魅了されるのは、それを知ってしまうと2度と手放したくなくなる、
お前が無意識に人に与えるあの暖かい空間だ。
その中にいると、どんな事があっても受け入れてもらえる安心感に擁かれて、
素直な自分に立ち帰る事が出来るんだ。

考え付く限りの享楽に溺れながらも本当は孤独な貴婦人達の何人か(いや、何十人か?)が
本能的にそれに気づいてお前に興味を示していたことが、今になって良く分かる。
最初からその空間の中にいて、外側だけを見ていた私の方が、気づくのが遅かった。
そしてまだ気づかない鈍なやつ、それはおまえだ!見てみろ、でかいなりして反抗期真っ盛りの兵士達ですら、
おまえにはまるで無防備な姿を見せている。そのおまえの眼差しが女性に注がれた時、
何が起こるかおまえには分かっていない。ああ、くそ、昔は平和だった。



「何が色男だ、もっと己を知れ」
「はいはい、肝に命じておきますよ」
「言っとくがな、さっきの悪戯はまだ初心者レベルだ」
「へええ、何を基準にそうおっしゃる?経験豊かなマエストロ」
「マエ…!一般論というものを知らんのか!」
「耳年増」
「ほお、言ったな、いいのかアンドレ」
やっぱり逆襲してやる!もう後悔してもおそいぞ。

「それでは私の見解の根拠を教えてやろう」
「楽しみだな」

おまえそうやって悠々たる態度を取っていられるのも今のうちだぞ。
私はゆっくりと、色あせた年代物のマホガニーの執務机の周りを回ると、
勿体つけて椅子に腰を降ろし、大仰に足を組んだ。
ついでに腕も組んでやった。

「私はおまえの秘密を握っているぞ」
「秘密?」
ふ、まだ何だか分からないといった顔をしているな。

「おまえ、私が何も知らないと思っているだろう。
おまえに恥をかかせるのは忍びないと思って今まで知らぬ振りをしてやったが…」
「な、何のことだ?」
顔色が変わった。よし。
「まあ、おまえも若かった事だし、私としては理解してやっているつもりではある。
ここまで言えばわかるな?なんのことだか」
「わ…わからんぞ…」
分からんか…。動揺しているじゃないか。
「そうか、ではまだ先を言えというのだな」
「べ、別に言えとは…ただ俺はおまえの言わんとするこが、何なのかいまいち…」
「父上も一枚かんでいるのではないか?」
「え、旦那様が…?」

腕組み
ちょっと動揺?

楽しくなって来た。おまえは眉間に皺を寄せて考えこんでいる。
明らかに冷や汗もかいているな。
「もう止めようか、アンドレ。おまえが心から悔い改めてこれからは清く生きると
言うなら、私も今度こそ綺麗さっぱり忘れてやる」
ここで、この上なく優しい声音を使い、悠然と微笑んで見せる。
この間が肝心なんだ。
アンドレが顔を上げた。そしてじっと私を見つめる。ここで負けたら台無しだ。
私も微笑みを保ちながら答えを促すように小首を傾げる。

しばしの沈黙の後。

「言えよ」
腹を括ったアンドレが静かにのたまった。
「いいのか?」
「ああ」

私は一つ大きく深呼吸をし、遺憾に堪えない表情を作って、
アンドレを上目使いで一瞬見つめてから、今度は悲哀をこめたため息をひとつ。
我ながら芸が細かい。
アンドレが、すっと後ずさって生唾を飲み込んだのが分かった。

「おまえは…パリの某所で…場所の名はあえて言わないでおいてやる。
武士の情けだ。いいのか?言うぞ?」
ガタン!アンドレが弾かれるように椅子から立ちあがったが、
かまわず言葉を続ける。
「おまえがその某所で…」
私は足を組みなおすと、にっと笑った。
「何をしていたかなんぞ知らん!」
「えっ?」
「しかし語るに落ちるとはこのことだな。おまえ、何かやましいことがありそうじゃないか」

私の勝ちだ。でも…ある確信を得た私は激しく後悔する。莫迦は私だ。

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