〜聖ヴァランタンに向けたO嬢の画策〜 その2
「聞きたい事があるのだが……」
思い切って、オスカルは厨房を取り仕切るマダムに声をかけた。名前さえ知らないが、人
の良さそうな小太りの婦人が厨房の全般を牛耳っているという事は聞いた事があった。
一方、突然雲の上の人である隊長から直接声をかけられたマダムは2歩も3歩も後退する。
「……何か不手際がございましたでしょうか」
下げたままの頭を上げる事ができないマダムの肩に手を置き、
「そんなに硬くならないでほしい。ちょっとした私個人の試みに知恵を貸してもらえない
だろうか?」
「隊長様の、試み……でございますか?」
「そうだ」
宮廷中の婦人達を悩殺して来た最高の笑顔を、ここぞとばかりに武器にしたオスカルにマ
ダムは了解した。
勿論オスカルは、この段階では自分こそが大変な思いをする事になるなど、知る由もなか
ったのだが……。
「分けるの、か……?」
「さようでございます」
朝飯前だと言わんばかりにマダムは大きく頷いた。
「これを、分けるのか?」
もう一度、オスカルは同じ質問をしたが、答えは変わらなかった。
「はい」
マダムの満面の笑みは壊れない。
覚悟を決める時が来たようだ。
卵を黄身と白身に分ける。それだけの事だ。何と言う事はない!
できるはずだ。きっと……。
まだ幼い頃は、屋敷内でアンドレを探して、厨房の奥にまで入り込んではコック達が料理
するのを眺めていた。一様に皆、この卵の白身と黄身を分ける作業を簡単にやってのけて
いた。そのうち、様々な作業を手伝うアンドレも自慢げに「僕もできるようになったよ。
オスカルも練習してみる?」などと気楽に声をかけて来るのが悔しくて「僕には剣の稽古
の方が大切だ」と言い、結局その頃を境に厨房に入って行く事もなくなってしまった。
今、思えば……と、根が真面目なオスカルは振り返った。あの頃にこの技術を習得してい
れば、この状況でいとも簡単に、この難題に立ち向かう事ができていたはずだ。勿論、彼
女の立場から言えば、卵の黄身と白身を分けるなど本来必要のない事なのだとは思い至ら
ないのだった。
「あ〜。せつない……」
額に汗さえ滲ませて一心不乱に卵と格闘する隊長がマダムには愛おしかった。年齢的には
自分の娘と変わらない、ヴェルサイユでも屈指の女丈夫が、ヴァランタンを翌日に控えたこんなむさくるしい軍の厨房の片隅で、おやつ作りに励んでいるとは!
「オスカルさま」
マダムがそっとオスカルに眼を向ける。
「今日は、アンドレにはどのように説明しているのでございますか?」
「あぁ、今日は宮殿に一日詰めると言っている。万が一、ヤツがここに来ても私の事は
絶対に口外しないでくれ」
「アンドレにまで、内緒にしておく必要があったのでございますか?」
「うん……」
一瞬言い淀んだ隊長に、マダムは聞いてはいけない事を聞いてしまったのかと思ったが、
「恥ずかしいだろう? やらせたらアイツの方が絶対に上手いからな」
ニッコリと笑顔を送って来るオスカルに玉砕されそうになり、マダムは急いで言った。
「この前おっしゃっていたようになさりたいなら、最低でも卵2個分は必要でございま
す。お励みくださいませ」
「うっ……」
『どうも隊員達は、私の作りおやつを食べてみたいらしい。私にもできる簡単なおやつを
何か教えてほしい。ヴァランタンも近いから日頃の慰労の為に、できればチョコレートを使った物で……』
マダムは数日前の隊長自らの相談内容を思い出し、クスリと笑いを洩らした。手は着実に
作業を進めながら、
「オスカルさま。肩に力が入り過ぎでございます」
「ん? そうか……?」
マダムは自分がつけた条件に則って次々に事を運んだ。
『隊長様のお気持ちはよぉ〜く分かりました。混ぜて焼くだけのブラウニーなら数的にも
融通が効きますので、何とかなるでしょう。ただ、こう申しては何でございますが隊長様
がお一人でなさるのは多少無理があるかもしれません。私共がお手伝いさせていただいて
宜しいなら、ご協力させていただけるかと思いますが……』
『了解した』
『それと、あの……何と申しますか……。あの、予算の都合上……』
『ああ。それは気にするな。私の気紛れだ。私費で賄う。ただ、アンドレには黙っていて
もらえないだろうか? それと、もう一つ。できれば……』
真剣な眼差しをしていたな、とマダムは思い出していた。希有な人生のこの麗人に、これ
ほど思われている兵士が羨ましいと、マダムは思った。
今、卵と格闘する隊長もその時と同じく真剣な眼をしている。
結局、計10数個の卵を使い、オスカルは何とか2個分だけ卵黄と卵白に分ける事に成功
した。卵を分ける様子を黙って見ていたマダムは、グシャグシャに混ざり合った残りの卵
を一気にかき混ぜ一旦台に置き、オスカルに
「カカオとバターを溶かした物の中に、砂糖を混ぜ合わせて下さいませ」
と、言った。それがすむと息つく暇もなく、そこにマダムがさっき混ぜた全卵を投入しろ、
予めふるっておいた粉類、ローストしたナッツを混ぜろ、と次々に手順を指示する。
オスカルとマダムが行なっているのと同様の作業を、他のマダム数人もそれぞれ一人で行
なっており、最終的に全ての材料は均等に大きな天板数枚に分けられた。
「オスカルさま、おやつ作りは手際の良さが大切でございます。オスカルさまがお作りに
なった分と皆の分を混ぜ合わせさせていただきます。これで均等に全ての中にオスカルさ
まが込められた愛が入ってございます」
一向に手を休める事なく言うマダムにオスカルは、驚愕した。
自分が日頃、何の頓着もな食べているおやつひとつにしても、これほどの手間がかかって
いたのかと、感心していた。
経費にしてもそうだなと、もう一つの驚きを思い出した。アンドレに内緒で事を勧めてい
る以上、私費で賄うと言った財源の確保は自分で執事に交渉するしかなかった。マダムか
ら聞いた見積りの捻出を、何に使うかハッキリ理由説明しなかったが、
「オスカルさまが日頃お飲みになるワインを1〜2本でも削って下されば良いだけの事で
ございます」
と、いとも簡単に即答されてしまった。自分が日常的に飲んでいるワインと、何百人とい
う兵士達のおやつの材料費があまり変わらない値段なのだ。
様々な現実と、頭の中の完璧なシミュレーションの違いこそ大きいがオスカルは淡々と事
を進めた。戦闘にはイレギュラーな事がつきものだが、料理にイレギュラーはあってはな
らないなどと、いかにも軍人らしい分析をしながら、マダムの手先を見つめていた。
マダムは、ヘラをオスカルに渡し、
「これで全ての表面をそーっと撫でるように整えて下さいませ。後は、焼くだけでござい
ますので、誰ぞに任せましょう」
そう言い放つと、これで終了とでも言いたげに安堵するオスカルに、
「オスカルさま! ここからが本番でございましょう」
と言うとマダムは、オスカルが苦労の末やっと分けた卵の前に戻って、
「ここからは、私は手を出しません。この前申し上げた作り方に従ってお一人でお作り下
さいませ。手は出しませんが、口は出しますのでご安心なさって……」
ああ、そうだった、とオスカルは思い直した。
ブラウニー作りだけで疲弊してしまっている場合ではなかったのだ。
『……それと、もう一つ。できれば、小さくて良いので別の物を準備したいのだが……』
そのオスカルの言葉にマダムは何にも聞かず、承知致しました、と答えた。
『同じような材料で目先の違う物をご提案いたしましょう』
オスカルの意図するところを見事に汲み取り、マダムは早速翌日には、作り方の手順をオ
スカルに言い伝えた。その分量から作り方までを懸命にメモを取る隊長の姿に並々ならぬ
決意を見たような気がするマダムだった。
「卵黄と砂糖は、腕が重たく感じるくらいまで良くかき混ぜて下さいませ」
紙上で読んだ段取りは頭に入っていても、実際に作って行くのとではペースが全く違った。
マダムは先ほど同様次々に指示を出す。
「卵白はしっかりしたメレンゲにします」
「カカオが熱いうちに生クリームを混ぜて下さいませ」と言い終わらぬうちから「メレン
ゲは泡をつぶさないように気をつけて下さいませ」ゆっくりしろ、と言ったかと思うと、
もっと手際よくと急かす。
オスカルは、こんな態勢は構想上あり得ないなどと再び戦闘にたとえてみたが、言いだし
たのは自分なのだから、黙って従うしかないとひたすら手を動かした。
「さあ。後は、マンケ型に入れてオーブンで焼くだけでございます。1時間もすればクラ
シック・ショコラも完成でございます。完全に冷えたら生クリームで飾って完成でござい
ます。メッセージにしても宜しいですし……」
オスカルは本当に脱力していた。
たかがおやつではないかと侮っていた自分が、とても恥ずかしかった。
フラフラになりながら、厨房を出て執務室に戻ると、
「やあ! 終わったようだな」
アンドレがニコニコして、迎えた。
「な、何が……!?」
幼馴染の前でポーカーフェイスで振舞う事に慣れていないオスカルは、他人の前では決し
て見せる事のない素顔で思いっきり狼狽した。
「明日はヴァランタンだからマダム達の知恵を借りて、兵士達の為におやつを作ってみた。
きっかけは、ブイエ将軍に休暇申請を蹴られた事と、フランソワ達の会話……。違うか?
おまけにおまえはショコラの良い匂いをプンプン漂わせている。俺がいるとうるさいから、
今日は宮殿に詰めると言ったっきり実際に詰めていたのは宮殿ではなく、厨房だった……」
ご名答。心の中で、ここまで行動パターンを読まれてしまうのかと歯ぎしりしながらも実
際にはグーの根も出ない。全くもってひと言の説明も必要ない。
「詰めが甘かったな。宮殿まで送って行った者がいないなんて、明らかに初歩的なミスだ。
おまえらしくない」
アンドレはそう言って笑いながら、オスカルの椅子を引き、腰かけるよう促す。図る必要
もない最高のタイミングでオスカルは着座する。
やがて、芳醇な香りのお茶がその眼前に差し出され、
「疲れただろう?」
何とも表現のしようのない満面の笑顔がオスカルを包んだ
「……ああ。いささか、な……」
不完全燃焼だな、と思いながらも、まあ良い、肝心の企みには気づかれなかったようだと、
そっとほくそ笑んだ。
その3へ
|