〜聖ヴァランタンに向けたO嬢の画策〜 その3
聖ヴァランタンの日。
兵舎中が大騒ぎだった。
普段通りの日常の中で昼食時間になってダグー大佐には、初めて事実が告げられた。アン
ドレは、一つの報告事項の漏れを言い添えるかのように、
「兵士達からヴァランタンに向けてのリクエストがありましたので、昨日は隊長がおやつ
作りを致しました。厨房のマダム達と結託……じゃないや、協力して、人生最初で最後で
あろうブラウニー作りに果敢にもチャレンジ致しております。明日の健康の補償がなくと
も良いと言う勇気ある兵士には、ぜひ今日のおやつに味わってもらいたく、隊長自ら諸君
に手渡したいと伝言があっておりますがいかが致しましょう?」
妙に真面目腐った態度と、それに似合わないくだけた内容の伝言にダグー大佐は数度瞬き
を繰り返し、やっとアンドレの言っている内容を咀嚼した。そして、絶句した。
「……大佐?」
アンドレは、不審に思った。表現が少々オーバーだったかもしれない。たかが焼き菓子ひ
とつで命を落とした話など聞いた事がない。言い改めようと息を吸った瞬間、大佐の嗚咽
が聞こえて来た。
「アンドレ……。隊長はあのようにお忙しいのに、我々の為に時間を割いて下さったと言
うのか? 何と……」
そして、それっきりその口が何かを発する事はなかった。
アンドレは、気持ちは分かるんだよなぁ、と微笑む。あまりにも感動しすぎてせっかくの
貴重な分け前にありつけない、なんてドジ踏まないで下さいよ、と心の中でダグー大佐に
話しかけた。
蜂の巣をつついたような大騒ぎの食堂の中央にオスカルがいた。
最近ではめったに見なくなった少女の頃のような微笑みを浮かべ、本当に兵士一人一人に
焼き菓子を手渡しつつ言葉を掛けている。
フランソワは皆からおまえの功績だと褒められながらもみくちゃにされている。体中をバ
チバチ叩かれ痛いはずなのに何とも嬉しそうだ。
「おい、邪魔だ。どけよ」
入口付近でオスカルを見つめるアンドレにわざとぶつかりながら声をかける男がいた。
「横を通れるだろう、アラン?」
アンドレは振り向きもせず、答える。
「全く、馬鹿らしい。なぁにがヴァランタンだ。皆もどうかしちまったんじゃないか? た
かがおやつひとつに大のオトナが行列作って……」
「良いんじゃないか? 何かイベント事でもなきゃオスカルもなかなか皆と触れあえない
からな」
「けっ。アホらしい」
言葉とは裏腹にとても嬉しそうなアランの顔をじっと見つめ、アンドレは、
「目尻が垂れてるぞ。たかがおやつひとつだと思うなら、尚更もらって来いよ」
素直ではないなりに、引き際を弁えているアランは、もう一度呆れたような顔をアンドレ
に向け、もう殆ど人がいなくなった隊長の前に進み出た。
「おう、アラン。いつもご苦労だな……」
オスカルの労わりの言葉が、アンドレの耳にも届いた。
そんな風に隊員達と戯れている時のおまえは、本当に嬉しそうだな、と少しの嫉妬を込め
ながら、オスカルとアランの会話を聞いていた。
「おい、おまえは行かないのか? なくなってしまうぞ」
「うん? 良いんだ。俺はオスカルのあんな幸せそうな笑顔を見られただけでも十分だ」
そんな会話を遮るように、誰かが、おやつはもうなくなったと叫んだ。
「ありゃりゃ、本当にもらい損なっちまった、な?」
「……しようがないよ」
悔しいのだろうけれど、なぜか清々しいアンドレの笑顔にアランは、
「俺の分を分けてやれば良かったな……」
心の底からそう思い、口に出した。「もう、食っちまったけど」
その時、オスカルがそんな二人の横を黙って通り過ぎた。アンドレが列の中にいなかった
事に気づかなかったのだろうか。ふとアランはそんな事を思ったが、そんなはずがない。
しかし、何となくそれ以上を詮索する必要はないと直感に近い感覚が思考を中断させた。
「お祭り騒ぎだったな」
上機嫌のオスカルは、執務室に戻って来たアンドレに話しかけた。
「ああ。久し振りにおまえも嬉しそうで、子守り役としては、こんなおもちゃがあるなら、
もっと早くに出しておけば良かったと少しばかり後悔している所だ」
「子守り? 私のか?」
「他に誰がいる?」
「まあな……。だが、なかなか楽しかったぞ、昨日から」
からかわれても尚も相好を崩さない幼馴染におやっと思いながら、
「マダム達の分は別にしておいたのか?」
ポイントは逃さずに、確認した。
「勿論だ」
勧められるままにお茶を手にしながら、オスカルは背もたれにドサッと倒れかかった。
「疲れた……」
執務室の中にも、チョコレートの甘い香りが充満している。
「おまえの分は……」
オスカルは言いかけたが、アンドレの笑顔に卵の白身と黄身を分ける事ができたと自慢し
ていた時の少年が重なり、
「アンドレ。私も、卵の黄身と白身を分ける事ができるようになったぞ」
と、この場面で言うほどの事でもないなと苦笑いしつつ言葉にしてみた。
「そう、なのか……?」
ブラウニーは、全卵をそのまま使う事を知っているアンドレはやや不思議な表情を浮かべ
た。しかし、
「今日は、もう帰ろう。とても、疲れたからな」
と言うオスカルの言葉に頷き、
「馬車の準備を頼んで来るよ」
と言い残し、執務室を出て行った。
アンドレが馬車の準備ができたとオスカルを呼びに戻った時に、オスカルは執務室にいな
かった。食堂の方から歩いて来る金髪がキラキラ光り、アンドレは思わず眼を細めた。
たぶん、今日の礼にでも行っていたのだろう。手には、包みを抱えている。マダム達からの贈り物なのだろうとアンドレは思った。しっかりと箱を持ち、足取りも妙に慎重に見えた。
アンドレは「馬車の用意ができたぞ」と叫び、乗車を促した。
「ああ」
微笑むオスカルが指定の位置に腰かけると、アンドレは新米御者のジルに何やら声をかけ、
自分自身も車内に乗り込んだ。
「明るいうちに帰れると、ジルもありがたいだろうな」
返事が欲しいわけではないが、アンドレは呟いた。
規則正しい車輪のリズムが響く。箱を膝の上に載せ、大事に両手で抱えた。
斜向かいのそれぞれの指定席。もう何年もそうやって揺れに身を任せて来たのだと、オス
カルは幼馴染の顔をじっと見つめた。
「アンドレ……」
手は箱の上にそっと置いたまま、懐かしいその名を呼んだ。
「ん?」
呼びかけたものの、次の言葉が出て来ない。自分は何を言いたいのだろう。
「アンドレ」
もう一度、その名を口にしたが、やはり言葉が出て来ない。
「どうした!?」
アンドレは幼い頃と同じように自分を覗き込み心配げに顔を曇らせる。
「疲れたか……?」
「ああ。少し、な」
「それ、持っといてやるから、少し休め」
無造作にオスカルの膝の上の箱を指さす。オスカルは、小さく首を横に振り、
「これは……おまえにやる」
グイッと両手で箱を押しつけるようにアンドレの正面に差し出し、
「……開けてみろ」
と無愛想に呟くと、車窓に視線を移した。
「私から、おまえへのヴァランタンの贈り物だ」
「え……」
アンドレは、戸惑いながら、そっと箱を開けた。
『Chaleureusement(心をこめて…)』
不格好にクリームで書かれた文字。卵を白身と黄身に分けるのにさぞ苦労したであろうク
ラシック・ショコラが、そこにはあった。
「オスカル……。ありがとう」
心を込めるとは、どうにでも取れる表現だ。だが、今のオスカルの気持ちを表すには、こ
れほどふさわしい言葉はないような気がした。
充満した甘い薫りの中、アンドレは言葉にできない幸せを噛み締めていた。
≪FIN≫
|