〜聖ヴァランタンに向けたO嬢の画策〜 その1       by おれんぢぺこ様

シンと静まった執務室。
右手の中指で小刻みに執務机を叩く女主人の仕草にアンドレは見とれていた。いや、今の 彼女の状況が"見とれる"などと言う優雅なシチュエーションを真っ向から否定するもの でなければ、従者は堂々と正視する事ができたはずだ。だが、眉間に皺を寄せ、尚も規則 正しいリズムを取り続けているオスカルの綺麗な指先に時々チラチラと視線を送りつつも、 アンドレはなかなかその顔を上げる事ができずにいた。

「アンドレ……」
やがて、ピタッとリズミカルな音が止まると同時に、ややハスキーな低い声が自分の名を 呼ぶ。彼女が何を要求しているか瞬時に判断し、アンドレは、彼女の補佐役として特別に あてがわれた自分用の机から無言で立ち上がると同時に、1枚の書類を取り上げ、大袈裟 に映らないよう気を遣いながら差し出した。

オスカルは、黙って書類を再読しながら、再び美しい顔を歪ませた。
「この稟議書のどこに文句のつけどころがあると言うのだ!?」
従者は返事ができる立場にないと分かっていながら、
「クリスマス休暇が明けたばかりだと言いやがった、あのクソ親爺は!!」
どこでこのような悪態のつき方を覚えたのか、その大半が平民である部下達と同じような 乱暴な言葉を用い、伯爵令嬢は上司に対する憂さを自分の従者に向けた。 アンドレは無駄だと思いつつ、立場上、
「まあ、そうカリカリするな。確かに休暇明けじゃ、致し方ないじゃないか?」
と、窘めると言うより慰める言葉をかける。そして、先ほど主人に出し損ねたお茶をそっ と執務机に載せる。今日のおやつのビスキュイを、
「あんまり頭に血が昇ってイライラしてたら後の執務に支障を来たすぞ。甘いものでも口 にして、落ち着いて下さいませ、上官殿」
自分に声をかけた段階で、彼女なりに何かを消化させたのだろう事は分かっていたものの、 くだけた口調で更に気持ちを落ち着かせる為に、おやつに注意を向けさせた。

「イヤミだな」
黄金色の焼き菓子を一瞥し、麗しき上司は、アンドレが淹れた絶妙なバランスのお茶にそ っと口をつけた。 「せっかくの思いつきだったのに……こうもあっさり却下されると、さすがに傷つくな」
ビスキュイをひと齧りし、オスカルは溜め息をついた。

「気持ちは分かるけど……」
アンドレは、少し言葉を濁した。オスカルは、チラッとその切れ長の眼を動かし、先を促 す。仕方ない、と言うように溜め息をつき、アンドレは自席に戻り腰を下ろした。
「おまえの気持ちは分かるよ。みんな疲れているのは事実だ。でも、今回ばかりはブイエ 将軍の言い分も然りだと思う。なんせクリスマス休暇が終わったばっかりだ。それぞれに 精気を蓄えて来たばかりだろうと言われたら、確かにその通りだろう?」
一旦息をつぐ。両手を顎の下で組んで、オスカルの方を見つめ、
「前例が云々とかっていうのは、いかにもおエライさんの言い出しそうな事でムカつくけ ど、ヴァランタンにまた兵士達にまとまった休暇を与えろだなんて、おまえらしくない乱 暴な言い分だ」
「……分かっている。まとまったと言うのは確かに無理があったかもしれない。だが、何 かにかこつけないと、あいつらに十分な休みを与えてやり辛くなっているのは事実だろ う? クリスマスだって有事には出勤もあり得るなどという条件つきだったし……幸い何 事もなく終わったが、正直、私も何かが心に引っかかったままの休暇だった」

喋りながらオスカルは確信した。自分の中のわだかまりはもっと個人レベルの問題だった。 アンドレへの自分の想いをどう定義づければ良いか図りかねていたのが事実だ。

婚約騒動は何とか終結した。だが、幼馴染との微妙なバランスは、どちらかが少しでも力 を加減したら一挙に崩れてしまいそうな危うい状況だった。それに気づいているのかどう か、アンドレは、微かに昔の名残を見せながらも、オスカルとの間にある一定の空間を保 ったままだ。以前のような暴挙を彼自身が恐れているのか、あるいはオスカルへの想いに 何らかの答えを見出したのかは判断しかねるが、それ以上近づく事はない。しかし、離れ る事もない状況にオスカルの心は騒いでいた。
クリスマスや新年の家内行事で慌ただしく日々は過ぎ、気づいてみると、アンドレにはゆ っくりできる休みがなかった。勿論、オスカルがクリスマス休暇である以上、軍人として の仕事はなかったが、常に従者としての仕事には追われていた。加えて彼の習い性として 誰にも止める事ができないのだが、時間が空くと同僚達の仕事にも手を貸すのだから、屋 敷にいる方が却って忙しくしていたようにオスカルには感じられた。

本当は聖ヴァランタンにかこつけた休暇は、おまえにこそ与えてやりたかったのだが……。

そんな本音を正直に口に出せるほど素直だったら、こんな苦労はしていないな、と苦笑す る。オスカルの気持ちを寸分違わず読み取れるアンドレも、事に自分自身が絡んで来ると その機能は停止してしまうのだから、どうしようもない。
それならば、ここはひとつ。
決死の覚悟でオスカルはアンドレに訊いてみた。今、アンドレが欲している物は、何だろ うか?

「ビスキュイも良いが……」
口を滑らかにしようとお茶を一口飲み、
「おまえだったら、何が欲しい?」
「ビスキュイ以外に?」
アンドレも自分の分のおやつに手をつけながらオスカルに視線を送る。
「あ、いや……」
「俺は、確かにビスキュイも好きだが、チョコレート菓子の方が嬉しいかなぁ。疲れがピ ークに達した時なんか尚更だな」
少年のような笑顔を向けるアンドレに、決死の覚悟で言ったセリフがこんなにも遠回しな のかとオスカルは嘆息した。確かにおやつの好みは大事だが、オスカルが知りたかったの はもっと広義での"欲しい物"だったのだが、通じなかったらしい。
しかし、たったひと言に全てのエネルギーを使い果たしたオスカルは、数秒アンドレを凝 視したが、結局自分の真意は伝わらないな、と再び溜め息をついた。

何とも的外れな会話にピリオドを打ち執務室を出たオスカルの耳に、食堂へと向かう廊下 の向こうから隊員達の取りとめのない会話が届いたのは、その時だった。ちょうど死角に なり姿は見えないが、数人の飾らない声が聞こえる。
「……良いよなぁ、おまえには可愛い彼女がいるから」
「そんなんじゃないよ。ただ、きっとヴァランタンには奮発しなきゃなんないだろうな」
時期が悪すぎる、とアンドレはオスカルを声の聞こえる方向から遠ざけようとした。先ほ どの執務室でのやり取りから、今のオスカルにとってヴァランタンの話題は禁忌だとアン ドレは判断したのだ。
「オスカル。遠回りだけど、外を回る方が暖かいぞ」
促すが、上司は、
「待て! 何かヒントがあるかもしれん」
と、その場に立ち止まってしまった。そして、兵士達の会話に聞き耳を立てる。
「ヴァランタンと言えば、隊長に何か贈るのか?」
「隊長に? 何で?」
「だって、隊長は俺らのミューズだし、軍において唯一の女性で……」
「厨房にもわんさとミューズはいるぞ」
大笑いの数人の兵士達の声に混ざって、
「隊長は、誰かに何か贈ったりするのかなぁ」
明らかにフランソワと分かる声がした。
彼等の会話は、やっと沈静化しつつある隊長の怒りの導火線をもう一度燃焼させてしまう のか、逆に導火線自体を取り除くほどの効果を見せるのだろうか。アンドレは、諦め半分 に、そっと上司を見やった。

一瞬、それぞれの思考の陥っていた二人の耳に再度フランソワの声が響いた。
「……俺、隊長が作ってくれるんだったら、たとえ消し炭になってても食うけどなぁ」
「え〜っ! それはあり得ないだろう?」
即座に言い返しているのは、ラサールだろうか。少しくぐもって途中の彼等の会話は聞こ えなかったが、その成り行きは想像できた。
つまり


隊長の手作りおやつ!!!!!!

「……奴らが要求しているのは、そういう事らしいぞ。……休みも重要だが、な」
アンドレが、その才能を十二分に発揮し、隊員達の気持ちを代弁した。
「ふんっ!」
オスカルは大股で、その場を離れた。 

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