〜ある日〜1

空が高くなった。
立ち上る埃と、馬の匂い、武器庫から漂う油と金属の 入り混じる無機質な空気、男ばかりの人いきれと汗の 匂い。そんなむさ苦しい練兵場を通り抜ける、熱を持 った爽やかとは言い難い粉塵混じる風にも、一筋の清 涼な肌触りの流れが感じられるようになった。

衛兵隊に赴任して来て間もない頃、この執務室から見 える兵舎の南壁際に真新しいムクゲの苗が植えられた。 それから2年目のこの夏、私の背丈を追い越す程に成長 し、薄桃色の儚げな一日限りの花が毎日新しく花開く。 夏の間、殺伐としたこの男臭い風景の中にあって、疲 れた時にふと目を留まらせてくれる宿木の役目を努め てくれたが、そろそろ花も終わりのようだ。

知っているぞ、おまえは何も言わないけれど、おまえ がこっそり植えてくれたのを。暑さ寒さに強く、痩せ た土地でも育ち、汚染もものともしない丈夫な花木だ と、庭師が言っていた。

おっと、つい感傷的に、季節の移り変わりなどに思い を馳せてしまった。いや、正直に言うとこのくそまだ るっこしい報告書の山と、その返書を書くという、私 には拷問にも等しい仕事から一時逃れたかったのだ。 ぶっちゃけた話、現実逃避ではないかだと?そうとも 言うが悪いか!

しかも更に忌々しい事に、執務室のすぐ窓際で、深夜 勤明けの一班が騒いで居るのだ。家族に不幸のあった ジャンの代わりに勤務を交代してやったアンドレまで 加わって。え、真の拷問に等しい状況とは、そっちの 方ではないかだと?いつも居るはずの補佐役でなしで 昨夜から今まで一人で仕事をしているのだ。不自由な のは当たり前ではないか。あいつが昨夕、巡視に出て しまってからこの昼まで、私はのろのろと非常に効率 の悪い仕事振りを発揮している。問題を摩り替えてい るだと?ほっとけ!

「もう一度だけでいいからさ、頼むよアンドレ」
フランソワの声だ。
「仕方のないやつだな、そんなにかっこつけたって  いずれおまえの素顔が相手にだってわかるだろ?  その時に幻滅されても知らないぞ」
なんの話だ?
「そんなこと言ったって、最初から振り向きもされな  かったらお話にならないじゃないか〜」
ほお、恋煩いか、フランソワ・アルマン。
「綴りや適当に引用できる詩とか神話なんかは教えて  やるから自分の言葉で素直に書けよ。  おまえらしく。」
「俺、恋文なんて慣れてないから、そんなこと言われて  も頭が真っ白になってだめなんだ。」
恋文?
「俺だって慣れてない」
ちょっと待て、何でおまえが関係有るんだ?
「この間手伝ってもらって書いたやつね、結構彼女の  ハートを揺すぶったみたいなんだ。アンドレって  詩人だね。あともう一押しなんだけどな、頼むよ」
ふん、そういうことか。
「あれは…、少々ノリ過ぎたかも知れんな。後から思  うと」
「すっごくカッコよかったじゃん、俺が書いたんじゃ  ないみたいに」
「だから、いささか後悔してる」
アンドレ〜おまえな〜っ。一体どんなことを書いたん だ。気になるじゃないか。
「フランソワ、やめとけ、やめとけ、こいつはな、30 過ぎていまだにチョンガーで不毛なやつだ。そんな やつに女のことを相談してどーするんだよ」
アラン、おまえアンドレを知らないな。
「まあ、そういうことだ、班長なら経験豊かだからき っと力になってくれるぞ、フランソワ」
アンドレ、おまえ今必死で笑いをこらえているだろう。 「アランになんか相談したら、うまくいくものも行か なくなっちゃうよ」
「フランソワ、おめえ〜」
「俺は、アンドレがいい」
フランソワ、おまえは正しい。
「フランソワ、じゃあ、今度俺にも会わせてくれよ、  その、えっと」
「ヴィルナ!」
「そう、そのヴィルナに。おまえの言うとおりに描写 すると、この世のものとは思えない女神様になっちま うから。実際に見れば、少しは自然な言い回しが出  来るかも知れない」
おいおい、アンドレ、何を言い出す、やめろ。
「う〜ん、ダメ!」
「どうして?」
「アンドレなんかに会わせたら折角の苦労が水の泡!」
「あはは、まさか。それこそ30過ぎの中年なんぞ10代  の娘が相手になんかするもんか」
「絶対ダメ!分かってないな〜アンドレは!」
フランソワ… 懸命な判断だ。
それに、良く分かっているじゃないか、本人より。
「よし、俺に任せろ、悪いようにはしない」
「アラン、まだ居たの?」
自分を分かっていない男がもう一人いた。

「楽しそうだな、私も混ぜてくれ」
窓からいきなり顔を出してやった。連中がどよと驚く。
「たっ隊長〜、聞いてたんすか」
と、フランソワ。聞くも聞かないも場所を考えろ。
「この残暑で窓は全開、そして此処は私の執務室の壁  際。更に言えば月末に付き、私はしばらく缶詰だ。  知らぬわけではあるまい。」
「聞いてやってくださいよ、こいつったら身の程知らず  もはなはだしい暴挙に出たんっすよ」
ピエールがフランソワの制止を振り切って進言する。
「こいつの惚れた娘っ子ってのがあのポルシュロンに  新しく出来たキャバレーの踊り子…」
大きな手が伸びてきてピエールの首根っこをむんずと 掴む。アンドレだ。
「よーし、もう充分だ」
「なんだよ、ちぇーっ!」
むくれるピエール。 バツの悪そうにしているフランソワの薄く日に透ける 銀髪をアンドレがくしゃくしゃとかき回した。

あんな風にあいつが私の頭をかき混ぜなくなってから、 どれ位経ったろうか。長くてしなやかな指が髪の間に 入り込み、包み込むあの暖かくて懐かしい感触は、今 でもしっかりと記憶に刻み込まれている。つん、と何 かが胸を刺した。まあ、いい。気を取り直して、突っ 込みを入れて見る。

「後、もう一押しとはおまえもなかなか隅に置けない  な、フランソワ」
「もう一押しどころか、こいつらのやってることと来  たらまるでガキのままごとみたいでやってらんねえ  ったらこの上ないね。おい、俺が口説いて見せてや  るから、その店に行ってみようじゃないか。」
慌てて睨みをきかせるフランソワの背後でぷっと噴出 したアンドレを、アランは見逃さなかった。
「何が可笑しい、アンドレ」
「いや、俺も是非行きたいな。おまえが女性を口説く  ところ、見てみたいよ」
「アランはね、何も言わないでただ実力行使するだけ  なんだ、絶対店は教えない!」
「なーにが女性だ、気取りやがって!そうやって上品  ぶってるからおまえは何時までたっても女に不自由  してるんだよ、おい、フランソワ、おまえもこんな  やつに倣っていたら一生日照り続きだぞ」

聞き捨てならんな、アラン。この男所帯では分かりづ らいかもしれんが、こいつは魔性の男だぞ。ヴェルサ イユでさしたる敵も作らずに数多の御婦人のお誘いを さらりとかわすのはかなりの高度な技術を要するのだ。 それをこいつは無意識の内にやってのける。こいつに 玉砕した御婦人方は、その笑顔と屈託のなさに恨んだ り、嫉む気を無くしてしまうらしいのだ。

時々、私が水を向けると、おまえは 『彼女らが注目しているのはおまえだろ』 と、笑うが、わたしを隠れ蓑におまえを見つめる目は 決して少なくはなかった。

「こいつはな、アラン、見かけによらず手足れだぞ」
アンドレが目をまん丸くして私を見た。そらみろ、 全く自覚が無い処が魔性なんだ。ちょっと釘を刺して 置くか。
「こいつの御婦人方の扱い方は、そん所そこらの青二  才の貴族の御曹司の比ではない。フランソワ、おま  えの人選は正しい」
「おいおい、一体何を言い出すんだ」
「だが、反面見当はずれとも言える。こいつは自分の  言動が女心にどう響くか分かっちゃいない。その点  は気を付けろ」

「女心〜〜〜!!」
見事なカルテットで反応が返って来た。変なところで 気の合うやつらだ。しかし、私も言ってから驚いた。 女心。私に先の台詞を言わしめたものはそれか。
「なんだその意外そうな顔つきは」
アンドレは毒気を抜かれた顔で苦笑し、フランソワは 何かピンと来たようだ。こいつは若いが、なかなかい い勘をしている。アランはけっと横を向いた。こいつ も察しは悪くない。何かと嗅覚が効くから突っかかっ て来るのだ。

どやどやと、兵士達が埃を巻き上げながら引き揚げて 行くのを見送りながら、後に残ったアンドレがちょい ちょいと私を手招いた。
「おい、オスカルちょっと耳貸せ」
「なんだ?」
「あのな…」
窓から身を乗り出して顔を寄せる。

「…綺麗だ…オスカル」

いきなり吐息が耳に懸る距離で囁く。おまえの唇に触 れている髪が、唇の動きを振動で伝えて来て、心臓が でんぐり返った。
「え…」
慌てて身体を窓から引っ込めようとして、しっかりと 手を握られているのに気がついた。途端握られた手か ら、血潮が濁流となって逆流する。どうしよう、膝が かたかたと音を立てて震えているのが聞こえるようだ。 動けない!

「たった一晩が俺には千夜一夜にも思えた。だが  おまえに会えなかった夜が、今日のおまえを一層  美しく見せてくれる。俺はアポロンを追い続けて  向日葵に姿を変えたクリュティエになりたい」

み、耳に唇が触れそうで触れない距離まで近づいて 来て、な、なんてことを言うんだ!
「ア……!」
「おっと、大声を出したり不自然な行動を起こすと  変に思われるぞ、まだ近くに人が…」
なんなんだ、急にがらっと調子が変わった。
「さっきはよくも誤解を招くようなことを  言ってくれたな〜!」
な、なにい!?
「参ったか! リベンジ、成功!あ、向うからユラン伍 長が来たぞ、くれぐれも自然に振舞えよ、  …ということだ」

  リベンジだと〜っ!やられた!さっきとは違った感覚 の熱い流れが全身を巡った。だが此処では怒鳴るわけ にも行かないじゃないか。おまえときたらまだ手を握 ったまま、可笑しくてたまらないといった顔でご満悦 だ。
「それで…だ」

「待て、その続きはここじゃ…」
やっとの思いで言葉を搾り出す。覚えてろ。場所を変 えてたっぷり礼をしてやる。
「…じゃあ、そっちへ行くよ」
おまえが手を離した。…なんだか急に切なくなった。
「そうしてくれ…」
さあ、来い。遺言状を書くくらいの時間はくれてやる。

その2へ続く)