〜ある日〜 2
少しでも涼を取ろうと、ドアは開け放ってあった。
アンドレは軽くドア際をこんこんとノックさせてから
入って来た。憎いほどの爽やかな笑顔を浮かべて。
「やあ、オスカル、顔が赤いな」
「怒っているからな」
「そうか、そんなに効果ありか。さっきのおまえの
俺への評価はあながち外れてはいないというわけ
だ。試してみた価値はあったな」
くっそ〜、リベンジのリベンジはどうしてくれよう。
気がつくと何とか逆襲のいい手はないかと考えを巡ら
して寡黙になってしまった私を黒い瞳が覗き込んでい
た。その間も休む間もなく手が動き、私が無秩序に
積み上げてある書類を分類し、効率よく処理出来る環
境を作りあげていく。この天然タラシの貧乏性め。
衛兵隊に移ってから、私は大分この手の言葉を学習し
た。さすがに口に出しては言わないが、心の中で毒づ
く時は、なかなか便利だ。
「そんなに驚いたか?悪かった」
ああ、すぐこれだ。そんなに優しい目をして微笑みな
がら謝るな。逆襲する気が失せるじゃないか。だから
おまえはスケコマ…止めよう。
そうだった、おまえとはどうしたって報復合戦が続か
ないんだ。おまえに戦意を保ち続けるのは容易じゃ
ない。
「フランソワはもしかして、辛い想いをする事になる
のではないか?いいのか?」
仕方がないので、話題を彼に振った。世間に疎い私で
も、城壁外の遊興地区の踊り子が、踊り子だけをして
いるのではないことくらいの想像はつく。少々気にも
なっていた。
「全く、ピエールのやつ余計なことを…。最初にやつ
に聞いた時は思いっきり冷たく突き放して見たんだ
よ。かなりきつい言葉で、真剣に恋をしてはいけな
い相手じゃないか、と。あいつ、凄い剣幕で食い下
がってな、絶対に諦めないって。その様子を見てい
たら…あいつならひょっとして乗り越えていくんじ
ゃないかと思えてな…。辛い目には遭うだろうけど
理屈抜きでこれだけは譲れない事ってあるだろう?
俺は…あいつにそれを感じたんだ。あいつには
欲しいものを勝ち得て欲しいと思うよ」
アンドレそれは…。私はまたしても言葉を失う。
「それにしてもだ、オスカル。おまえが俺をあんな風
に思っていたとは意外だったな」
一瞬陰りを見せたアンドレの瞳に悪戯っぽい光が宿る。
「そうか?そう思っているのは何も私だけでは無いと
思うぞ。帰ったら侍女達何人かに聞いみろ」
しれっと言ってやった。
「聞けるかそんなこと。いいからかいのネタになるだ
けだ。しっかし、俺にも色男の小技が使えるんだな。
おかげで自信がついたよ。今日はいい日だ」
それは良かったな、馬鹿者。あんな小技が問題なんじ
ゃない。(と、言う割には強烈だったが)人が魅了さ
れるのは、それを知ってしまうと2度と手放したくな
くなる、お前が無意識に人に与えるあの暖かい空間だ。
その中にいると、どんな事があっても受け入れて
もらえる安心感に擁かれて、素直な自分に立ち帰る事
が出来るんだ。
考え付く限りの享楽に溺れながらも本当は孤独な貴婦
人達の何人か(いや、何十人か?)が本能的にそれに
気づいてお前に興味を示していたことが、今になって
良く分かる。最初からその空間の中にいて、外側だけ
を見ていた私の方が、気づくのが遅かった。そしてま
だ気づかない鈍なやつ、それはおまえだ!見てみろ、
でかいなりして反抗期真っ盛りの兵士達ですら、おま
えにはまるで無防備な姿を見せている。そのおまえの
眼差しが女性に注がれた時、何が起こるかおまえには
分かっていない。ああ、くそ、昔は平和だった。
「何が色男だ、もっと己を知れ」
「はいはい、肝に命じておきますよ」
「言っとくがな、さっきの悪戯はまだ初心者レベルだ」
「へええ、何を基準にそうおっしゃる?経験豊かな
マエストロ」
「マエ…!一般論というものを知らんのか!」
「耳年増」
「ほお、言ったな、いいのかアンドレ」
やっぱり逆襲してやる!もう後悔してもおそいぞ。
「それでは私の見解の根拠を教えてやろう」
「楽しみだな」
おまえそうやって悠々たる態度を取っていられるのも
今のうちだぞ。私はゆっくりと、色あせた年代物のマ
ホガニーの執務机の周りを回ると、勿体つけて椅子に
腰を降ろし、大仰に足を組んだ。ついでに腕も組んで
やった。
「私はおまえの秘密を握っているぞ」
「秘密?」
ふ、まだ何だか分からないといった顔をしているな。
「おまえ、私が何も知らないと思っているだろう。おま
えに恥をかかせるのは忍びないと思って今まで知ら
ぬ振りをしてやったが…
「な、何のことだ?」
顔色が変わった。よし。
「まあ、おまえも若かった事だし、私としては理解して
やっているつもりではある。ここまで言えばわかる
な?なんのことだか」
「わ…わからんぞ…」
分からんか…。動揺しているじゃないか。
「そうか、ではまだ先を言えというのだな」
「べ、別に言えとは…ただ俺はおまえの言わんとするこ
が、何なのかいまいち…」
「父上も一枚かんでいるのではないか?」
「え、旦那様が…?」
楽しくなって来た。おまえは眉間に皺を寄せて考え
こんでいる。明らかに冷や汗もかいているな。
「もう止めようか、アンドレ。おまえが心から悔い改め
てこれからは清く生きると言うなら、私も今度こそ
綺麗さっぱり忘れてやる」
ここで、この上なく優しい声音を使い、悠然と微笑ん
で見せる。この間が肝心なんだ。
アンドレが顔を上げた。そしてじっと私を見つめる。
ここで負けたら台無しだ。私も微笑みを保ちながら
答えを促すように小首を傾げる。
しばしの沈黙の後。
「言えよ」
腹を括ったアンドレが静かにのたまった。
「いいのか?」
「ああ」
私は一つ大きく深呼吸をし、遺憾に堪えない表情を作
って、アンドレを上目使いで一瞬見つめてから、今度
は悲哀をこめたため息をひとつ。我ながら芸が細かい。
アンドレが、すっと後ずさって生唾を飲み込んだのが
分かった。
「おまえは…パリの某所で…場所の名はあえて言わない
でおいてやる。武士の情けだ。いいのか?言うぞ?」
ガタン!アンドレが弾かれるように椅子から立ちあが
ったが、かまわず言葉を続ける。
「おまえがその某所で…」
私は足を組みなおすと、にっと笑った。
「何をしていたかなんぞ知らん!」
「えっ?」
「しかし語るに落ちるとはこのことだな。おまえ、何か
やましいことがありそうじゃないか」
私の勝ちだ。でも…ある確信を得た私は激しく後悔する。
莫迦は私だ。
何が起こっているのか解らないといった顔で呆然と立
ち尽くすアンドレだったが、見る間に頬に赤みが挿し、
後ろを振り返ると、執務室のドアを閉めて錠旋した。
あ、やばい。やりすぎたか!
「オスカル〜〜〜!おまえ〜!」
私も立ち上がり、机を挟んで睨み合いになったが、次
の瞬間2人同時に噴出し、右に左に追かけ合いになっ
た。
「やったな!待てこの小悪魔!」
追いかけて来るアンドレは、笑っていてくれた。良かっ
た、済まなかった。私も笑いながら逃げ惑い、笑いすぎ
の振りをして、涙をぬぐった。
「あはは、参ったと言え、アンドレ!」
「誰が参るか、捕まえてのしてやる!」
「ここは何処だ?アンドレ・グランディエは品行方正
ではなかったのか?」
「そんなものは今日を限りにおさらばだ!」
アンドレは私を追いまわし、とうとう私は部屋の隅に
追い詰められてしまった。壁に背をつけた格好で、
後のない私の両肩の上の壁に両手をついたアンドレの
顔が至近距離に。2人とも息を弾ませているので
お互いの吐息を直に感じ、余計に動悸が早くなる。
視線が合った。吸い込まれそうだ。
このまま抱きしめられてもいいと思った。
…ちがう。
抱きしめられたかった。
アンドレが大きく息をつく。
「お仕置きが必要なようだな、オスカル」
「目が笑ってるぞ」
「いや許さない」
「どうするつもりだ」
「こうしてやる!」
うわっ。アンドレはいきなり私の腰を抱き、自分の肩
に担ぎ上げた。そして降ろされたのは執務机の前の椅
子。間髪いれずに音を立てて私の目の前には書類の束
が積み上げられていく。腰に両手を当て、仁王立ちに
なってアンドレが言った。
「本当なら、縄で椅子にくくりつけてやるところだがな、
それは許してやる。その代わり今日はこの書類の
処理が終わるまで、そこを動かさないぞ。食事と飲
み物は運んでやる。わき目も振らずに仕事しろ」
一気にまくし立てた後、ふっと優しい顔になる。
「そして、今日は明るい内に早く帰ろう。疲れてる
はずだ、早めに休め」
「それがお仕置きか?」
「そうだよ。おまえにはいちばんこたえるだろう?」
…なんでそんなに優しいんだ。泣きたくなるじゃない
か。成る程、痛い目にあうよりよっぽど効いた。
「おまえは監視官というわけか…」
「監視官も兼ねてはいるが、強力な助っ人はどう?」
「それならいつもと一緒だ」
「いや、今日は徹底的に監視もする。脱線、お遊び
一切なしで、早く終わらせる事に徹する」
「トイレは?監視つきか?」
「俺が替わりに行ってやる」
「やってみろ」
声をたてて笑い合った。
「さあ、お喋りはこれ位にして一気に片付けるぞ。
2人ならすぐだ」
おまえはとんとんとばらけた紙をそろえ、ぽんと私に
渡して寄越すと、自分も作業に取りかかる。
そこで、私はあることに気がついた。
アンドレ、夜勤明けじゃないか。それに一昨日もおま
えは私の月末業務に付き合って眠っていないはずだ。
「おまえは半日勤務免除になっている。仮眠しろ」
「我が隊長殿は、見張っていないとすぐに机から逃げ
出すからな。しかも半日目を離した隙によくこれだ
けと感心するくらい書類がとっ散らかっている。
あともう半日なんて怖くて放って置けないよ」
「命知らずのやつだな、もう一度言ってみろ」
「修羅場を潜り抜けたばかりの俺にそんな脅し、
今更効かないね」
「頑固者」
「オスカル」
アンドレの右手が私の左手首を卓上で抑えた。
きゅぅ…ん!
掴まれているのは手首なのに、心臓をきゅっと握られ
たような切ない痛みが胸の奥に走る。
「俺がいなけりゃお仕置きにならんだろ?それに俺も
お仕置きが必要なんだ、違うか?オスカル」
そんな声で、そんな笑みで私を包むな。おまえの人間
の深さに圧倒される。
「では、見張っていてもらおうか」
こんな言い方しか出来ない私に、おまえはまたこぼれ
んばかりの笑顔をくれる。
アンドレ、毒食らわば皿までと言うだろう?
いっそ一生見張っていてはくれないか。
おまえの今日の悪ふざけ。最初は確かに腹が立った。
騙されたのは悔しい。どんな勝負でも負けるのは
大っ嫌いだからな。だけど、おまえが私をかついだと
分かった時、怒りもしたが悲しかったんだぞ。
…嘘だったのか…と…。
アンドレ、おまえ、ひとの恋路の手助けをしている
場合じゃないぞ。私を口説いてはくれないか。
自慢じゃないが、私は素直に出来ていない。負けず
嫌いもきっと一生治らない。私が素直になる日を待っ
てなどいるな。おまえがその気になれば、今の私は簡
単に落とせるぞ。いや負けず嫌いの私としては多少の
抵抗もするかも知れないが、おまえは私を知っている
はずだ。それに今までおまえが通ってきた道程に比べ
れば、わたしの今出来る抵抗などささやかなものだ。
おまえはクリュティエなんかじゃない。器用だけれど
不器用で、絶望的に間が悪い、莫迦で賢い私の愛しい
ピグマリオン。
*ピグマリオン
キプロスの若い才能ある彫刻家
アフロディテをモデルに美しい彫像を彫り上げ
るが、その彫像に恋をしてしまう。
ひたすら彫像を愛し続ける彼に折れた女神が
彫像に命を宿す。
愛することを知る者
愛の力を知る者
と、言われている(らしい)
* クリュティエ
(ついでに‥)女性ですが細かいことは
気にしないことです(ジェロっちか!)
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