もう何年も繰り返し見慣れたはずの症状ではあったが、今年は型を変えた、しかし重症患者が急増しているとの報告書を書架の元の位置に戻す。静かな環境を利用して、今日こそ先日から自分に命題と課したこの論文を完成させようと思い、私は立ち上がった。
妻が淹れるカフェの甘い匂いが部屋中に充満する。決して嫌いな香りではないが、少し早朝のさわやかな空気も呼び込みたいと思い、窓を開ける。つい習慣となってしまい、下の通りを見下ろすと……早速、お出ましのご様子だ。
今日も、長い長い一日が始まる気配を感じさせられた。
握りしめた地図と思しき紙片を広げ見入ると、キョロキョロと定まらない視線を上下左右に動かす女性。眩しそうに太陽に手をかざし、こちらを見ているが私と視線が合うわけではない。まだ、ここを見つけ出したわけではないようだ。無理もない。だが、この入り組んだパリの街並みまで辿り着いただけでもあっぱれなものだ。
全く、どなたもこなたも感心してしまう。その勇気に免じて今日もまた、私はついつい助け舟を出してしまう。
「マダム! こっちですよ」
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「いやはや……遠路はるばるようこそ。さぞお疲れになられたでしょう」
私が発するマダムへの労いに合わせるかのように、妻が微笑みながら来客用のカップに淹れたカフェを差し出し、下がって行った。
最初の頃こそ、恐ろし気に、矯めつ眇めつしていた妻だったが、もうすっかり動じない。
慣れとは恐ろしい。しかし、しっかりファッションチェックだけはしたようだ。
今日の訪問者は、何日か前に見たご婦人と同じような装いだ。ストレッチ生地のクロップドパンツは流行色のパステル系ブルー。トップスは同系色のボーダーのTシャツ。手には白い麻のジャケットを持っている。貴族の乗馬用でもないのに、女性が好んでズボンを穿く時代が来るなどとは思ってもいなかった私にとって、このようなファッションが世に蔓延しているとはにわかには信じがたいが……いや。時代は推移する物だ。変わって当然と受け入れよう。
白いピンヒールのパンプスの先から見える爪にまで綺麗に化粧が施されている。これは何という手法だろうか。お帰りの際きちんと聞いておこう。後から妻に尋ねられた時に答える事ができなかったら、今後の私の死活問題に関わって来る事だろう。
マダムは、今までここを訪問して来たご婦人方と同様に汗を拭き拭き私に答えた。
「いいえ、何の事はありません。ここを訪れさえすれば万事うまく行くと聞いてきましたので、このくらいの事は……。でも、さすがに5階までの階段は息が切れましたが……」
「エレベーターなる物が出現するのは、まだずっと未来の事ですのでね」
どうも揃いも揃って運動不足なのもマダム達の共通事項のようだ。私の答えに曖昧に微笑み、マダムはカフェをひと口啜ると、
「それにしても……原画から抜け出て来たような風貌ですね、ラソンヌ先生」
マダムは驚愕と感嘆が混じった顔を私に向け言葉を続けた。
「本当に同じ空間にいるなんてびっくりです!」
「いやいや……。本人ですので当然でしょう」
「何で私が先生を探してるって分かったんですか」
全く判で押したように同じ質問。私は、それでも初めて答えるかの如く、笑顔を向けた。
「情報が入ったのですよ。ジャルジェ家の諜報部員から……」
「ジャルジェ家の!?」
「そうですよ」
「では! では、オスカルさまも、この空間のどこかにいらっしゃるんですか?」
「マダム……」
気の毒だが、私は頭を振った。マダムはハッとして、
「あ、ごめんなさい。ルール違反でしたね。オスカルさまの事はお尋ねしてはいけないと固く言い渡されていました……」
「そう……。あなた自身の病気について知りたいなら、ね……」
「さあ、マダム。診察を致しましょう。あなたの症状を教えてください」
私はテーブルを挟んで座り直し、マダムを正面から見つめた。まずは簡単な予診票を渡し記入を促した。ご婦人は、当然のように手に取った羽ペンに反応し、
「これは……! アンドレがオスカルさまの為に選んだという噂の……」
はいはい、さようでございます。
私がそんな毒づいた言葉を飲み込み頷くと、彼女は満足げにそれを持ったまま、票を左手指で摘まみ、フランス語なんか学んだこともない、とぼやきつつ紙片を近づけたり遠くにやったりした。何とも……。オスカルさまの純愛に心ときめかせた乙女の眼にも年波は接近中という訳らしい。
「あら……。フランス語だと思っていたのに、この問診票、日本語なんですね」
感心したようにマダムは○をつけ始める。
「ここ最近は以前にも増して日本からの患者さんが増えてますのでね……。他にもフランス語は勿論、英語、スペイン語、韓国語……かなりの国の言語で問診票を準備していますよ」
嬉々としてペンを動かす事に没頭するマダムを正面にしながら私は説明した。
そして、この先はこれまでにここを訪れた何百というご婦人が話した事と変わらないのだろうが、私は今日のこの訪問者の話を聞く体勢に入った。
「実は……」
ご婦人は、コホンと咳払いをした。
「この数週間、何をやっても心が満たされないと言うか……無気力、無関心。それなのに、ちょっとした事で涙が出たり……。仕事も決算期で忙しいと分かっているのに、その時々の事柄に集中できない……主なのは、そんな所です」
「なるほど……」
私は持っていた羽ペンを一旦ペン立てに戻した。
「失礼……」
マダムの手を取り、お義理程度に脈を測る。興奮気味なので若干早打ちだが、概ね正常。
「落ち着かなかったり、悲観的だったり、もしくは何も悪い事をしていないのに何かに対し罪悪感を持つような体験はありませんでしたかな?」
さすがに症状だけは千差万別なので、目の前のマダムが答えた内容を問診票で確認しながら、型通りの質問を投げ掛けてみる。
「いいえ……」
ゆっくりと否定するご婦人に、
「人によっては孤独感が強くなる、パニックに陥るなどの症状が出る事もあります」
「いえ、私はそんな事は……。あの、先生。こういう事ってよくあるんですか? 近所の病院に何回か行ったし、セカンドオピニオンもしてみたんですが結局、ポリニャック伯夫人病というのが一致した見立てで……あ、勿論、病院では"更年期"などと言う可愛げのない表現で言われましたけど……そうじゃなければ軽い鬱症状でしょうって……。必要ならお薬出しますよって表面は親切なんですけど、何だか『病院では治らないよ』って言われてるみたいで……」
「なるほどね……」
私は、なるべく顔に出さずに、
「食欲がない。逆に過食だったり……不眠、下痢や便秘、吐き気、腹痛、頭が痛かったり重たい感じ、肩こり、しびれやめまい……耳の聞こえが悪くなる、じんましんなどの症状。何が出ても不思議ではありません」
言い切る私に、マダムは不安げな表情になる。
「私……何か重い病気なんですか?」
深刻な空気を一掃する為に私は話題を変える事にした。
「ところで。ここの事は、どうやってお知りになりましたか」
「あの……言ってみればクチコミ、と言うか……ネットで調べてたら……っていう説明が分かるのかしら……」
後半のマダムの言葉は小さく、殆ど独り言だった。
「直接、病院や症状で検索しましたか?」
「いえ、そうじゃなくって……。でも、あの……」
ここで、当然、ご婦人は疑問を抱いた。そこで私はこちらから説明する事にした。
「あなたはある掲示板で、よく似た症状の書き込みを見つけた。……そこで、自分もそうだと書き込んだ……」
「え、ええ! その通りです。でも、なぜ先生にそんな事が分かるんですか?……と言うか、なぜ先生が、この時代にはまだ存在しないはずの物の事を何の違和感もなく語れるんですか?」
当たり前の疑問を、このご婦人も私に訊いた。
「先ほども申し上げましたでしょう? ジャルジェ家の諜報部員の助力ですよ、全て」
平然と答える私を見つめ、マダムの美しい顔がひきつった笑い顔に変わる。
「まさか……タイムマシンが実在する、とか……? 私、『真相を知りたければラソンヌ先生を訪ねましょう』というにわかには信じがたいメールに従って、シャルル・ド・ゴール空港に着いて入国審査を抜けた所までは覚えているんですが……軽いめまいを感じ、意識を取り戻した時にはメトロのバスティーユ駅に立っていたんです。そして、パリの街中に……来た事もない場所なのに、いつの間にか手にした地図に従って……」
多くのご婦人方がそうだったように、このマダムも現実と妄想の間を行き来している様子がよく分かり、少々気の毒になって来る。
「現にあなたは、こうやって私と対面している」
「……そう、ですね。つまり、半信半疑で言われるままの手順に添ってここまで来ましたけど……じゃあ、ここは本当に18世紀のフランス……パリって事ですか?」
マダムの顔は一瞬でまた元の柔和な表情に戻った。そして、今まで何百回も聞いて来たお定まりの言葉を、このマダムも発した。
「……だとしたら、私は今、本当にオスカルさまと同じ空気を吸っているという事になるのですね!!」
何という事だろうか……。
ここを訪れるご婦人達は皆、非科学的なこの超常現象よりも、オスカルさまと同じ空の下にいるという喜びの方が勝っているかのように、この異空間での出来事を喜ぶ。
まあ、良い。治療が終わりさえすれば、正しい診断名と療養方法の他はここでの事は一切思い出せないのだから……。
それよりも、仕上げに掛かる事にしよう。
「さて、マダム。あなたの症状ですが……」
私は、ゴクリという音が聞こえて来そうなほどに思いつめた表情のマダムを見つめた。
「あなたの症状……診断名はOLSロス症候群 」
私は、いつものように端的に結論を先に述べた。
「オー、エル……エス……ロス……症候群……?」
「そう。10年以上前にベル風邪という『お年頃の(主に)女性』が罹患しやすい風邪が流行したのを覚えておいでかな?」
「ええ、勿論です! 私も罹りました」
自慢げに言う表情も、マダム達共通の物のようだ。
「勿論、あの風邪の大元は言わずもがな40年前に大流行したあるシンドロームだったのですが……あなたの今の症状は間違いなくベル風邪の派生ユニット……じゃない派生症状で、今年は9年ぶりの大流行だと言われております」
「9年ぶり!?」
「さよう……。OLSロス症候群……正式名称を……
One and Half Love Storiesロス症候群
……と申し上げれば、もう何のご説明もいりませんでしょう?」
「そんな……」
マダムは、今までここを訪れた人達と何も変わらない表情と台詞で私を見つめ、しばし呆然とした。
「早い人では、第6話のアップを待たずに症状が出始めた人もいます。極端な例、アップが始まった途端、終了する事が悲しくて発症したという人もいましたよ。……先は読みたいんだけど、終わってしまうのは悲しい……。あなたのように掲示板に書き込む事で似たような症状の人が他にもいると気づき、同じようにメールを受け取り、ここを訪れた人は他にも大勢います」
マダムは呆然とした眼差しながら、私の話に聞き入っているようだ。
「そんな……。そりゃあ、連載が終わってしまったのはショック以外の何物でもありませんし、本音を言うとこの先どうなってしまうのかしらって気にならないわけじゃないし……できれば続きをお願い??っていうのは皆思っているとは思うんです。でも、私は……いいえ、私達はそれ以上に嬉しかったはずですっ!!」
「……その通りです。だから皆さん一様に、診断名を聞いて喜んで帰って行く。まったく不思議な病気です」
「治るのですか? あ、いえ。そういう病気なら何だか治らなくても良いという気持ちになっちゃったんですけど……ただ立場上仕事に支障が出てしまうのは、やはりちょっと……」
これもまた同じ反応のマダム達。会社の管理職だとか、学校の役員がとか、実家の親の介護が、子供の受験、孫を保育園に迎えに行かなきゃならないのに……等々、それぞれの立場から、この病の為に社会生活が正常に営めなく事は困ると言う。
少し前にイケメンアーティストの結婚がショックで会社を休む女性が沢山出現したというのも頷ける。
「治療と言っても今の症状に対する対症療法しかないのですが……」
私はマニュアルに沿って提案する事にした。
「どんな……?」
「まず、今の悲しみを無理に否定する事はなさりませんように……。泣きたい時には泣いて……ご自身で何か書いてみるという方法もありますし、気持ちを落ち着かせる為に絵画を鑑賞するのも良いでしょう」
「絵……ですか? 私、あまり、詳しくないので……。それに美術館なんて行った事ないし……」
「いえいえ、美術館に行けと言っているのではありませんよ。あなたは、もう既に何度もその心落ち着く場所を訪れていますよ。……K画伯のクローゼット……」
「あっ!!」
ご婦人の眼にきらりと星が輝いた。
しばしの歓談の後、マダムは落ち着きを取り戻し、にこやかに礼を述べてくれた。ハード面での治療は何も施してはいない。しかし、ここで想いを吐露した事で結論を見つけたマダム達は皆揚々と引き上げて行く
私は、玄関まで見送り、お約束の言葉を投げ掛ける。
「マダム、ひとつとっておきの魔法の言葉を送りましょう」
「何ですか?」
「……どうしても苦しくなったら、自分自身に言い聞かせるのです。
『おまえが たえた苦しみ なら・・・・・・
わたしも たえてみせよう たえて みせるとも』
……皆が、同じ気持ちでいるのですよ……」
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さあ――。まもなく今年も、あの時期がやって来る。
締め切りはとうに過ぎてしまっている。毎年こうやって診療に追われて失念し、発表を見送って来てしまった。この調子だと今年もひっきりなしに患者がやって来るだろう。この変化した、9年ぶりに大流行の兆しの症状については是非加筆しなければならない。
そして、変化した症状の為に患者は弥増す事も予測できる。そうなっても、焦らずに対処できるように、本当に今度こそこの"貴病"に関する論文を完成させよう。
≪fin≫
7月を前に、素敵な夢を届けて下さった
カオル様、もんぶらん様に
感謝を込めて・・・・・・
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